お世話になっております。

木の哲人 窪寺伸浩です。

毎日、テレビを見ても、ラジオを聞いても、新聞を読んでも、コロナ・コロナの一色です。
ちょっと旧メディアにたより過ぎと言われるかもしれないけど、SNSを通じても、やはりコロナ一色なんですね。
コロナに関するニュース、日本以外の物々しい「都市封鎖」の映像と、私たちの日常、特に商店会や公園での人々の風景が、あまりに違うのに驚かされます。

「コロナとの戦い」という悲壮感のある表現には、二つあると思います。

一つは、まさにコロナを敵と考え、戦略的にこれをいかに封じ込めていくかということです。
医療従事者は、まさに、戦士の様相ですね。

もう一つは、コロナウィルスというものを異質なもの、他者と考えているということです。
人類を相容れないものと考えているわけですね。

日本の様相は、「戦い」という実感を忘れてしまった「平和呆気」によるものなのか。
「家にいるストレスが溜まってしかたがない」「コロナ離婚」「家庭内暴力」が増えている。
といった報道を見ると、日本人がすべて「他人事」に なってしまって、コロナとの「戦い」すら起こせない「危機意識」欠如の民族に成り下がってしまったようで情けない。
一方で、日本人がウィルスに危機意識を持たないのでは、ウィルスとも共存可能(?)と考える日本人の思考があるのかもしれない。
ウィルスの発生自体にも、現代の行き過ぎた人類の文明のあり方への警告と考える向きもある。

このコロナ問題を解決するとき、私たちはどうなっているのか?
「抗体」は、単なる体ばかりの問題ではない。
思考方法、生き方そのものにも、新しい抗体が必要なのだ。

関連記事一覧